発酵の沼 — 01
至適温度は、いちばん良い温度ではありません
酵素の速さの話——なぜ半年もかかるのでしょう
読了目安 約9分

味噌を仕込んだ人が最初に不思議に思うのは、たぶん時間のことです。麹の酵素がハサミのように大豆のタンパク質を切っていく。そこまでは分かりました。では、どうして半年もかかるのでしょう。
甘酒なら、同じ麹の同じ酵素が、一晩で米を甘くしてくれます。温度は55〜60℃。味噌はといえば、常温に置いて半年から一年です。材料も酵素もほとんど変わらないのに、時間の桁がふたつ違います。
「温度が低いから遅い」だけでは、この差は説明できません。速さ、壊れにくさ、塩、そして切り方の分担。この四つの噛み合い方で、半年という時間が決まっています。きほんの第2章では「酵素はタンパク質だから、熱すぎると壊れて戻らない」というところで止めました。ここではその一文を、量として開いていきます。
酵素の速さは、量ではなく二つの性格で決まります
酵素の働きぶりは、ふつう二つの数で表します。ひとつは Vmax。切る相手(基質)がいくらでもある状態で、最大どれだけ処理できるかという上限です。もうひとつは Km。最大の半分の速さになるときの相手の濃さで、小さいほど薄い相手でも捕まえられる、という意味になります。
ざっくり言えば、Vmax は「ハサミの本数」、Km は「手の届きやすさ」です。麹歩合を上げる——大豆に対して麹を多くする——という操作は、Vmax の側を動かしています。大豆あたりのハサミの本数を増やしているわけです。甘い味噌が甘いのは砂糖のせいではなく、麹を多く入れて米のデンプンを持ち込み、それを糖に変えているからです。

仕込んだ直後の味噌は、まだ切られていない大豆タンパク質と米のデンプンで埋まっています。酵素から見れば相手が余っている状態で、曲線の右のほう、Vmax の近くを走ります。切り進むほど、切りやすい相手から先に減っていきます。曲線を左へ下りていくことになります。
ですから、熟成後半で味の変化がゆるやかになるのは、酵素が疲れたからではありません。食塩13%(できあがった味噌の重量に対して)・30℃・60日の仕込み試験では、プロテアーゼ類は約95%、グルコアミラーゼは97%、いちばん弱いα-アミラーゼでも84%が残っていました。酵素はほとんど無傷のまま、ただ遅くなっているのです。
至適温度は、速さが最大になる温度であって、最良の温度ではありません
温度を上げれば反応は速くなります。目安として、10℃上がると速さはおよそ2倍前後。この温度の効き方を Q10 と呼び、その背後にあるのがアレニウスの式です。味噌の中でも、同じことが見えます。米味噌を3か月置いたときの色の濃さは、4℃で約1.4倍、20℃で約2.2倍、37℃では約17倍でした。
ところが酵素には、もうひとつ別の時計があります。壊れる側の時計です。麹菌のα-アミラーゼは至適反応温度が55〜60℃とされますが、実はその手前から、酵素は少しずつほどけはじめています。
ほどけ方の測り方に、D値——活性が10分の1になるまでの時間——があります。食品の中に埋もれたα-アミラーゼで、55℃なら4〜5時間、60℃で約1時間、65℃で10分前後、70℃では5分弱。「60℃で失活する」というより、「60℃に1分いる」と「60℃に1時間いる」はまったく違う、と考えたほうが実際に近いです。
ここに非対称があります。反応の速さは、温度で行ったり来たりします。冷ませば遅くなり、温めればまた速くなる。けれど失活は戻りません。ほどけた酵素は、冷やしても折り直ってくれないのです。「冷ましすぎは待てば済むけれど、熱しすぎは取り返せない」という手順のうえの非対称は、この違いから出てきます。

ある温度に一定の時間置き続けるなら、稼げる仕事の総量は「速さ×まだ壊れていない酵素の量」で決まります。この積のピークは、至適温度より低い側にずれます。実測もあります。食塩13%の塩麹を96時間消化させた試験では、45℃でα-アミラーゼ活性はほぼ保たれ、50℃で約半減、55℃ではほとんど残りませんでした。ここがおもしろいところで、至適反応温度に近い55℃のほうが、4日で見ると仕事をしていないのです。
甘酒と味噌の違いは、ここにあります。甘酒はアミラーゼだけを十数時間、全力で走らせて終わる短距離走なので、至適反応温度を取りにいけます。味噌は全部の酵素を数か月走らせ続ける長距離走なので、瞬間の速さよりも壊れにくさを優先します。常温に置くというのは、消極的な選択ではありません。総量を取りにいく設計です。
塩は、酵素にもブレーキをかけています
きほんの第4章では、塩を「来てほしくない菌を締め出す壁」として説明しました。ただ塩は、こちら側の酵素にも効いています。しかも効き方は酵素ごとに、方向まで違います。
粗酵素液を40日置いた試験では、食塩を0%から20%にすると、pH3.0で測るプロテアーゼの残存率は57.7%から84.4%へ、pH6.0で測るほうは50.6%から90.9%へと、むしろ上がりました。塩は酸性系のプロテアーゼを守っているわけです。一方で、中性プロテアーゼは77.6%から49.3%へ、α-アミラーゼは96.7%から78.9%へと下がります。
ただ、「壊れにくい」ことと「速く働く」ことは別の話です。うま味のもとになるグルタミン酸は、いったん遊離したグルタミンを、グルタミナーゼという酵素が変換して生まれます。じつのところ、このグルタミナーゼが塩に弱く、従来から知られている麹菌のものは、味噌や醤油ほどの高い食塩濃度では活性が1割以下まで落ちてしまいます。2.9モル/Lの食塩の下でも無塩時の54%を保つ耐塩性のものが、わざわざ探索されているのは、その裏返しです。イオンの多い環境では、酵素と相手の引き合いが弱まる。塩は壊れにくさを買いながら、速さを売っているのです。
ですから味噌の遅さは、塩による選抜のコストとして支払われています。塩を減らせば酵素は速く働くかもしれませんが、締め出していたはずの菌にも道が開きます。「安全側に振る」と「時間をかける」は同じ操作の裏表で、両方を同時には取れません。半年待つのは、そのダイヤルを安全側に振った結果です。
切り方には二種類あって、苦味はその時間差から生まれます
「プロテアーゼ」とひとくくりに呼んでいますが、中身は混ざりものです。麹菌のプロティナーゼは酸性3種・中性2種・アルカリ性1種・セミアルカリ性1種の計7種、これに端を削るペプチダーゼが十数種類加わります。働き方は大きく二つに分かれます。鎖の内側を切るエンド型と、端から一つずつ外すエキソ型です。
エンド型は長い鎖の途中を切ります。一回切るごとに断片が二つになるので、短い時間で大量のペプチドができます。エキソ型は端から一個ずつアミノ酸を外します。うま味のもとになる遊離アミノ酸を作るのはこちらですが、一回で一個しか進みません。
順序としては、エンド型が先に効いて、エキソ型が遅れて効きます。しかも味噌の中には、エキソ型に不利な事情があります。味噌のpHは仕込みのときの5.7〜6.0から、熟成にともなってゆっくり下がっていきます。仙台味噌の小仕込み試験では、60日かけて5.74から5.30へ。市販品を測ると4.5〜5.2の範囲でした。
エキソ型の代表であるロイシンアミノペプチダーゼの至適pHは8.0です。味噌は仕込みの時点ですでに、この環境から大きく外れています。実際、さきほどの60日の仕込み試験でほとんどの酵素が9割前後残っていたなかで、はっきり減ったのはこのロイシンアミノペプチダーゼ3種だけ(33〜57%)でした。
熟成の中盤で苦味が立って、後半で抜けていくのは、この時間差から生まれるものとして説明されます。水になじみにくい(疎水性の)アミノ酸を含む短いペプチドは苦く、エンド型がそれを量産する一方で、角を削るエキソ型が遅れてやってくる。味噌では、大豆タンパク質の窒素のうち水に溶ける形になるのが6割前後、アミノ酸まで分解されるのは2割ほど。どちらも仕込みから35日ほどで頭打ちになった、という報告があります。残りはペプチドのまま残って、コクと苦味の両方を担います。
ただ、正直に書いておくと、味噌の苦味ペプチドそのものを特定して、その量と閾値を測った実測データは、調べた範囲では見つかりませんでした。仕組みとしてはこう説明できます、というところまでです。
麹を選ぶときに見る「酵素力価」の表示も、この分業までは語ってくれません。「酸性プロテアーゼ何単位」は、pH3.0で測ったタンパク質分解の強さであって、至適pHが3の酵素がそれだけ入っている、という意味ではないんです。しかも測定に使うpHは、何を追いたいかによって割れています。基準みそ分析法はプロテアーゼを酸性3.0・中性6.0・アルカリ性7.5の三点で測り、ペプチダーゼを追う研究では5.5・7.0・8.0が使われます。測定条件の違う数字は、並べて比べないでおくと安心です。
切るのと食べるのが、同時に進んでいます
時間の形を決めているものが、もうひとつあります。味噌の中では、切る反応と食べる反応が同時に走っています。
麹の酵素が米のデンプンを糖に変える一方で、その糖を塩に強い酵母が食べて、アルコールと香りに変えていきます。糖化が終わってから発酵が始まるのではなく、両方が並行して進みます。並行複発酵と呼ばれる形です。順番に進む系との違いは、中間産物が溜まらないこと。糖はできたそばから消費されていきます。
一方で、溜まる側の産物もあります。切って出てきたアミノ酸やペプチドは、次に切ろうとする酵素の邪魔をします。フィードバック阻害です。基質は減り、産物は増え、pHは下がる。三つが同じ向きに効くので、反応は等速では進まず、後半ほど鈍っていきます。長期の熟成で分解が止まって見えるのも、酵素が壊れたからではありません。
そして後半に起きていることは、前半とは質が違います。前半は切る反応が主役でした。後半は、切って出てきたアミノ酸と糖が結びつく反応——メイラード反応——が前に出てきます。この反応はアミノ酸と糖を使って、色と香ばしさを作ります。
ただ、うま味が差し引きでどれだけ減るのかは、数字で押さえにくいところです。市販味噌8種の遊離グルタミン酸を測った調査では、淡色の信州味噌が100gあたり746mg、赤味噌は214mg、仙台味噌は182mg。ここだけ見ると、色の濃いほうが少なく見えます。ところが同じ調査で、最も色の濃い八丁味噌は249mgと赤味噌より多く、最も淡い西京白味噌は107mgで8種の最少でした。麹歩合も原料も熟成期間も違う製品を横に並べた比較なので、色の濃さだけで決まるわけではなさそうです。
別の報告では逆に、熟成期間が長く色が濃い辛口味噌ほど遊離アミノ酸量は多くなる、とされています。同じ容器の中で、アミノ酸を作る反応と消費する反応が同時に進んでいるからです。うま味が香ばしさと色に姿を変えていく——という言い方は、向きとしては正しくても、増減の収支まで語れるほどの裏づけは、まだありません。
半年は、均質な半年ではありません。速く切っている数か月と、切り終えたものが混ざり合っていく数か月。同じ容器の中で、走っている反応そのものが入れ替わっているのです。
