発酵のきほん — 06
待つあいだに、主役は静かに入れ替わっています
半年のカレンダーと、食べごろの決め方
読了目安 約7分

仕込んだ翌週、蓋を開けてみたくなります。何か変わっているでしょうか。開けてみると、色はほとんど動いていなくて、においは煮豆と塩のまま。ひとくち味見をしても、ただ塩辛いだけ。
1か月目は、何も起きていないように見えます。それが正常です
この時期に進んでいるのは、目に見えない切断作業です。麹菌が去り際に置いていった酵素が、大豆のタンパク質と米のデンプンを黙々と小さくしています。切り出されたアミノ酸や糖は、まだ舌に届く量には達していません。味噌らしい香りをつくる担当者にいたっては、まだ現れてもいないんです。
ですから、何も起きていないように見えるのが、そもそもの段取りどおりです。むしろ気をつけたいのは、不安になって何度も蓋を開けるほうかもしれません。開けるたびに表面へ酸素が入り、第4章で立てた四枚の壁のうち「空気の少なさ」の一枚を、自分の手で薄くすることになります。この時期にあなたがすることは、触らないでおくことだけです。
2〜4か月目、乳酸菌が場を酸っぱくして、そこへ酵母がやってきます
酵素が切り進むと、味噌の中に糖とアミノ酸が溜まってきます。ここで最初に動き出すのは、酵母ではありません。塩に強い乳酸菌のほうが先です。「麹菌のつぎは酵母、そのあと乳酸菌」と書かれた解説をよく見かけますが、実はちょっと違います。醸造の一次文献はそろって、乳酸菌が先だとしています。
理由は三つあります。ひとつめは、仕込んだ直後の味噌がpH5.7〜6.0で、これが塩に強い乳酸菌の好む範囲に近いこと。ふたつめは、乳酸菌のほうが増えるのが速いこと。三つめは、蔵の仕込みでは乳酸菌を酵母より一桁多く加えて、わざと先手を取らせていることです。家庭の手前味噌はどちらも加えませんが、はじめの二つは同じように効いてきます。
乳酸菌が乳酸をつくると、味噌はゆっくり酸性へ傾いて、仕上がりではpH5.0前後まで下がります。この酸性の環境が整って、はじめて塩に強い酵母が働けるようになります。酵母は、アルコールと、あの甘く香ばしい香りをつくる担当です。半年待つのは旨味が足りないからではなく、香りの担当がまだ来ていないからなんです。
この順番を、誰かが指示しているわけではありません。ここがおもしろいところで、前の住人が変えてしまった環境が、そのまま次の住人の入居条件になっています。乳酸菌は自分の出した酸で増えるのをやめ、席を酵母に譲ります。もっとも、この前後関係は絶対ではなくて、条件によっては酵母が乳酸菌を抑えることもあります。その込み入った関係は、「発酵の沼」の第4章でお話しします。

月数は、あくまで目安です。工場の温度管理(28〜32℃)のもとで行われた試験では、乳酸ができるのは30〜40日ほどで一段落しました。酵母がいちばん増えるのもその前後で、同じ試験でも菌株によって20〜30日目のものと、40〜50日目のものがありました。ずいぶん幅がありますね。台所の常温はこれよりゆっくりですし、冬に仕込めばもっとゆっくりになります。カレンダーの目盛りは、温度で伸び縮みします。
たまり、白い膜、色の深まり。出てきても心配のないもの
この時期になると、表面にいくつか変化が出てきます。まず、黒っぽい液体が上がってきます。これが「たまり」で、中で分解が進んで、水分と旨味の成分がしみ出してきたものです。分離でも失敗でもありません。混ぜ戻してもいいですし、すくって調味料として使ってもかまいません。むしろ表面が液で覆われると空気が遮られますから、重石をかける目的のひとつが、これなんです。
容器の側面や味噌の中に、白い粒が出てくることがあります。これはチロシンというアミノ酸の結晶で、カビとよく間違えられますが、害はありません。じゃりっとした食感が気になれば取り除く、という程度のものです。
表面に白い膜が張ることもあります。産膜酵母という、空気を好む塩に強い酵母です。平たく広がって、しわが寄るのが特徴です。体に害はないとされますが、香りを損なうので、その部分を薄くすくい取ります。同じ白でも、一点から円形に盛り上がって、綿毛のように立体的になるものはカビです。色ではなく、形で見分けます。その判断の軸は、第4章に置いてあります。

天地返しのことも、少し書いておきます。蔵で行う切り返しには、大きなタンクの中の発酵を均一にすること、酸素を入れて酵母が増えるのを助けること、発酵で出た熱を逃がすことの三つの目的があります。どれも数トン規模のタンクだから起きる問題で、家庭の数キロではほとんど起こりません。埼玉県の家庭向けの手順に天地返しの工程がないのも、そのためです。やってもいいですし、やらなくてもかまいません。必ずしなければいけない作業ではないんです。
食べごろは味噌の状態ではなく、あなたが決めることです
完成日というものは、じつのところ存在しません。蔵で仕込む味噌でも、熟成にかける日数は麹歩合や大豆の下処理、発酵タンクの大きさや材質によって変わります。短いもので1か月ほど、長いものは年単位です。目指す色になったところで加温をやめる——つまり、どこで止めるかを決めているのは人のほうです。発酵は、放っておいても勝手には止まりません。半年は目安であって、締切ではないんです。
味見するときの軸は、三つに分けると迷いません。塩の角が丸くなったか。後味がどれくらい残るか。蓋を開けた瞬間に、香りが立ち上がってくるか。この三つを、月に一度くらいの間隔で確かめれば十分です。
ひとつだけ、ちょっと意外なことがあります。「長く置くほど美味しくなる」とよく言われますが、少なくとも香りについては、途中までしか当てはまりません。味噌らしい甘く香ばしい香りの鍵になるHEMFという成分は、30℃に保った試験醸造では熟成45日あたりで最大になり、そのあとは減っていきました。温度を25℃に下げたり、塩分を15%(できあがった味噌の重量に対して)まで上げたりすると、最大になる時期は熟成75日あたりへ後ろにずれます。ここでも目盛りは、温度と塩で伸び縮みします。
一方、旨味のもとになる遊離アミノ酸は、これとは違う動き方をします。辛口の味噌では、熟成期間が長く色が濃くなるほど遊離アミノ酸が多くなるという報告があります。長く置くと増えるのは、色とコクと香ばしさ、そして旨味です。ただし香りのピークは、それより早く来ます。食べごろを決めるとき、この二つは同じ日を指してはくれません。
気に入ったところで、冷蔵に移します。これは発酵を止める操作ではなく、ゆっくりにする操作です。米味噌の着色の進み方を3か月測った試験では、4℃なら約1.3倍、20℃で2.2倍、37℃では約17倍でした。温度を下げれば進み方はぐっとゆるやかになりますが、ゼロにはなりません。常温に戻せば、また進みはじめます。
ここまでの知識は、そのまま塩麹と甘酒に使えます
麹は、味噌専用の材料ではありません。塩麹は、タンパク質を切る酵素を、そのまま調味料として使うものです。甘酒は、デンプンを切る酵素だけに働いてもらったもので、55〜60℃という酵素の得意な温度に半日ほど置けば仕上がります。ここでは、菌の交代は起きません。醤油麹も、仕組みは同じです。
違うのは、何を切らせるかと、壁を何枚立てるかだけです。味噌は塩・酸・低酸素・時間の四枚を重ねるので、常温で半年置けます。甘酒は壁をほとんど立てないかわりに、数時間で終わらせます。壁の枚数が違えば、置いておける期間も、保存の仕方も変わってきます。味噌をひとつ仕込んだあなたなら、この見当はもうつくはずです。
これは予習であって、記録ではありません
この6つの章でやってきたのは、予習です。中で何が起きるのかを先に知っておいて、蓋を開けたときに、目の前のものを読めるようにしておく。ここまでが、このページの仕事でした。
半年ぶんの温度や様子を一本の線につないで、食べごろを見通す——これは、ブラウザでやる作業ではありません。一点だけ測ってもあまり意味を持たず、線になってはじめて手がかりになるからです。そこから先は、アプリの担当です。
最後にひとつだけ。あなたの味噌が去年と違うのは、発酵が不確かだからでも、菌が気まぐれだからでもありません。分からないのではなく、まだ見えていないだけなんです。見るための方法は、「発酵の沼」に用意してあります。
