発酵のきほん — 01
発酵とは、微生物に作り替えをおまかせすること
最初の問い——発酵って、そもそも何でしょう
読了目安 約6分

台所を見わたしてみると、発酵からできたものがいくつも並んでいます。味噌、醤油、酢、みりん、ヨーグルト、チーズ、パン、ビール。これだけ身近なのに、「発酵ってなんですか」と聞かれると、急に答えにくくなります。
そして、味噌を自分で仕込んでみようかと思ったとき、最初に浮かぶのは、たいてい不安のほうです。半年も台所に置いておいて、腐らないのでしょうか。腐るのと発酵するのは、いったい何が違うのでしょう。だいたい半年も面倒を見るなんて、続けられる気がしない。
この章では、その三つに順番にお答えしていきます。先に結論だけ言ってしまうと、発酵は微生物に作り替えを任せる技術で、腐敗との境目は測れる条件で決まっていて、あなたが手を動かすのは半年のうち一日だけです。
発酵とは、材料を微生物に預けて、別のものにしてもらうこと
発酵とは、目に見えない微生物に食べものを預けて、別のものに作り替えてもらうことです。まずは、この一文を置いておきます。
ここがおもしろいところで、微生物の側から見れば、これはただの食事です。彼らは大豆や米を分解して、必要なものを取り込み、使い切れなかったものを外に出します。その出てきたものが、わたしたちには酸味になり、香りになり、アルコールになる。発酵とは、微生物にとっての食事であり、人にとっての調味なんです。
ですから発酵は「変質」ではなく「作り替え」です。元の材料になかった物質が、あとから新しく現れます。ゆでただけの大豆に、味噌の香りはひとつもありません。
味噌、醤油、酢、日本酒、漬物、パン、チーズ、ヨーグルト、ビール、ワイン。素材も国も製法もばらばらですが、起きていることの骨組みは同じです。微生物が材料を分解して、人はその結果を食べる。ひとつずつの説明は、この章ではしません。全部が同じ骨組みの上に立っている、とだけ覚えて帰ってください。
ここで、よく言われることをひとつだけほどいておきます。発酵食品の国際的な定義(ISAPP、2021年)は「意図した微生物の生育と、食品成分の酵素による変換によって作られる食品」で、生きた菌が残っていることは条件に入っていません。パンにも、火入れした醤油にも、生きた菌はほとんどいません。それでも発酵食品です。発酵の値打ちは、菌が生きて残っていることではなく、材料が作り替えられたことのほうにあります。
味噌は、大豆と麹と塩と時間でできています
理屈の前に、結局なにとなにを混ぜるのかを先にお渡ししておきます。じつのところ、味噌の材料は驚くほど少ないんです。
大豆は、旨味のもとです。大豆のタンパク質が切り分けられて、旨味になります。麹は、分解の道具です。米に麹菌を生やしたもので、中身は道具、つまり酵素です。塩は、選別のフィルターです。誰を通して誰を締め出すかを決めます。そして時間は、反応が進んだ分そのものです。

図の三つに、目には見えない「時間」を加えた四つ——大豆・麹・塩・時間——が、これから読む六章の骨格になります。麹がなぜ道具なのかは第2章、大豆がどうやって旨味になるのかは第3章、塩が何を締め出しているのかは第4章、時間のあいだに何が起きているのかは第6章で扱います。
分量はここには書きません。大豆・麹・塩の三つの比率は決まっているので、作りたい量を入れれば計算できます。基本の味噌の分量は、計算ページで出せます。会員登録は要りません。
腐敗と発酵を分けているのは、どの菌が勝つかです
蒸した大豆に枯草菌が生えれば納豆で、これは発酵と呼ばれます。煮豆を放っておいて同じ枯草菌が生え、糸を引いてアンモニア臭がすれば、こんどは腐敗と呼ばれます。菌も、起きている反応も、実は同じ種類のものです。
呼び分けているのは、わたしたちの側です。微生物の作用のうち、人の生活にとって有益なものを発酵、有害なものを腐敗と呼んでいる。これは俗説ではなく、日本醸造協会誌にもはっきりそう書かれています。
ただ、ここから一歩踏み込むときだけは、気をつけたいことがあります。呼び名が人の都合で決まることと、安全かどうかまで人の都合で決まることは、まったく別の話だからです。
どの菌が生き残れるかは、塩の濃さ、酸性度、菌が使える水の量、そして温度で決まります。これらは、人の気持ちとは関係なく働きます。実例があります。イカの塩辛はもともと食塩10%以上で仕込む保存食でしたが、減塩化が進み、食塩1.8〜2.4%まで下がった塩辛で腸炎ビブリオによる食中毒が起きました。腸炎ビブリオは食塩2〜3%でいちばんよく増え、10%以上では増えられません。境目を決めていたのは、人の意思ではなく塩のほうでした。
ここまで来ると、「発酵は腐敗の一歩手前」という言い方も外しておけます。うまく仕込めた味噌は、危うい均衡の上に乗っているわけではありません。仕込んだときにpH 5.7〜6.0だった味噌は、熟成が進むと5前後まで下がり、菌が使える水も減っていきます。腐敗を起こす菌も、食中毒を起こす菌も、そこでは増えられません。綱渡りの途中ではなく、たどり着いた先なんです。どうやってその状態に行き着くのかは、第4章でひとつずつ見ていきます。
手を動かすのは、一日だけ
「半年かかる」と聞くと、半年ずっと世話をし続けるように聞こえます。でも、実際はそうではありません。
前の晩に、乾いた大豆を水に浸けておきます。大豆が水を吸うのに12〜16時間かかるので、これは寝ているあいだに済んでしまいます。翌日、大豆を煮て、潰して、塩と麹を混ぜ合わせ、容器に詰めて蓋をする。ここで終わりです。半日から一日で、あなたの作業はすべて終わります。
残りの半年は、何もしない期間ではありません。働いてもらっている期間です。直射日光の当たらない常温に置いて、家庭では六か月から一年が目安になります。進み方は温度に強く左右されて、工場では15℃以下まで下げて熟成を止めるほどです。ですから、どこに置くかを決めることが、実は最後の仕事になります。

この6章で、味噌をひとつ仕込めるところまで行きます
この六章を読み終えたとき、あなたに残るのは「発酵について語れる」ではなく、「味噌をひとつ仕込める」です。そのために各章が何を担当するのかを、先に置いておきます。
- 第1章(この章)——発酵とは何か。腐敗とどう違うのか。
- 第2章——誰が働いているのか。麹の正体と、仕込んだあとに残るもの。
- 第3章——なぜ美味しくなるのか。旨味も甘味も、どこから来ているのか。
- 第4章——なぜ腐らないのか。半年も常温に置いておける理由。
- 第5章——自分は何をするのか。手順を、理由のほうから読み直す。
- 第6章——待つあいだ、中で何が起きているのか。食べごろの決め方。
この六章で扱わないことも、先にお伝えしておきます。健康効果や栄養価は、このページでは書きません。発酵食品と健康の研究はありますが、一般の食品について言える範囲を超えた断定はしない方針だからです。味噌の歴史や、各地の味噌のちがいは、読み物と用語辞典のほうに置いてあります。
それでは、最初のひとりに会いにいきましょう。米粒を白く覆っている、あの綿毛のことです。
