発酵のきほん — 02
働いているのは菌ではなく、菌が置いていった酵素です
麹菌と、麹菌が残していくもの
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米麹の袋を開けると、白い粉をふいたようなお米が入っています。指でほぐしてみると、粒どうしが薄い綿でつながっているのが分かります。これが麹です。
袋の裏には「麹菌」と書かれていて、その正体はカビだと説明されています。ここで、多くの人が一度立ち止まります。カビを、これから半年食べるものに混ぜてしまっていいのでしょうか。
ここから麹をぐっと近くまで拡大して見ていきます。その先で、味噌でいちばん直感に反することにたどり着きます。仕込んだ瞬間、麹菌は退場します。それでも発酵は半年続きます。
麹は、目で見える唯一の発酵です
味噌に関わる微生物のうち、姿がそのまま目に見えるのは麹菌だけです。乳酸菌は1マイクロメートルほど、酵母でも3〜10マイクロメートルほどしかなくて、肉眼では見えません。顕微鏡がなければ、いることすら分かりません。
麹の白い綿毛は、菌そのものではありません。枝分かれした菌糸が密集した集まりです。菌糸1本の太さはおよそ5マイクロメートル、髪の毛の20分の1ほど。それが数え切れないほど束になって、はじめて白く見えます。

菌糸は先端を伸ばしながら米粒の表面を這い、内部へも潜り込んでいきます。麹は、見える側と見えない側が直接つながっている、唯一の場所です。この菌を麹菌(Aspergillus oryzae)といいます。
このカビは、人が毒をつくれなくしてきた系統です
カビと聞いて身構えるのは、とても正しい反応です。麹菌のすぐ隣には、アフラトキシンというカビ毒をつくる種がいます。両者はタンパク質をつくる領域で約99.5%が一致していて、同じ種の生態型ではないかという説が出るほど近い間柄です。オオカミとイヌの関係だと考えると、分かりやすいかもしれません。
では、どうして麹菌は毒をつくらないのでしょう。「毒の遺伝子がないから」ではありません。持ってはいるけれど、設計図が何箇所も破れているからです。国内の黄麹菌196株を調べた研究では、およそ45%が染色体ごと切れて毒素の遺伝子群の大半を失っていて、切れた端はもとに戻らない構造になっていました。設計図が残っている残り約53%も、指令を出す遺伝子がほとんど働かず、仮に働いても対になる相手のタンパク質が壊れています。二重三重に壊れている、というのが実際のところです。
これは自然が保証してくれた安全ではありません。人が長いあいだ、毒性のない個体を選び続けてきた結果だと考えられています。事実上の家畜化です。日本ではその選抜を、室町時代から種麹屋(もやし屋)が担ってきました。微生物そのものを売る商売としては世界でも最も古い部類で、いまは国内に約6社。味噌蔵も酒蔵も、麹はここから買った種麹でつくります。
菌は食べものをかじりません。ハサミを外に出して、切ってもらいます
麹菌には口がありません。かわりに、自分の体の外へ酵素を放出します。酵素が材料を外側で細かく切って、小さくなった分だけを吸収する。これを体外消化といいます。
酵素はよくハサミにたとえられます。実際に分子を切る反応なので、この比喩は誤解が少ないほうです。ただ、ハサミごとに切れる相手が決まっています。相手を選ぶ性質(基質特異性)です。プロテアーゼはタンパク質だけ、アミラーゼはデンプンだけ、リパーゼは脂質だけを切ります。
麹菌が特別なのは、このハサミを何種類も、しかも大量に外へ出すところです。2005年に解読されたゲノムは遺伝子12,074個で近縁種より大きく、増えていたのは主に、外へ分泌する分解酵素の遺伝子でした。タンパク質を切る酵素の遺伝子だけで100を超えます。ここがおもしろいところで、「蒸した米に生やす」という形式そのものも効いています。糖化を担う酵素の一部は、液体で培養すると蒸し米の上の20分の1ほどしかつくられません。
つまり麹とは、酵素を仕込んだ材料です。麹づくりとは、菌を育てることではなく、ハサミを備蓄することなんです。
仕込んだ瞬間、麹菌は退場します。それでも発酵は続きます
仕込むと、麹にとっての環境はがらりと変わります。塩が入り、容器に押し込められて酸素がなくなる。麹菌は酸素を必要とするカビなので、食塩12%前後の味噌のなかでは増えることができません。
実際に起きているのは、退場よりもう少し劇的なことです。仕込んだあとの菌糸は、自分自身を溶かしはじめます。醤油の諸味を追った研究では、菌糸の数も長さも7日目までにはっきりと減ったと報告されています。麹菌が姿を消しても、原料の分解は進みます。それを担っているのは、麹に残った酵素です。

それでも味は変わり続けます。酵素は生き物ではなく、タンパク質でできた分子の道具だからです。しかも味噌のなかで、酵素の多くは壊れません。30℃・食塩13%で60日置いた試験では、測った9種類のうち6種類が高い活性を保ちました。タンパク質を切るプロテアーゼ3種が約95%、グルコアミラーゼが97%、α-アミラーゼでも84%です。
ただし、例外があります。同じ試験で、ロイシンアミノペプチダーゼという酵素の3種だけは、60日で33〜57%まで落ちました。ペプチドの端からアミノ酸を1個ずつ外していく酵素で、旨味のもとになる遊離アミノ酸を直接つくります。原著でも、この低下が味に与える影響は大きいと見ています。備蓄した道具のうち、旨味に直結するものがいちばん早く目減りしていく、というのが実際のところです。
ここまでは、すべて酵素の話です。ただ、味噌のなかが無菌になるわけではありません。塩に耐える乳酸菌と酵母は生き残って、乳酸やアルコール、エステルをつくり続けます。麹菌が抜けたあと、分解のバトンは酵素へ、香りづくりのバトンは乳酸菌と酵母へ渡されます。
だから、熱いまま混ぜないでください
どの手順書にも「潰した大豆を人肌まで冷ましてから麹と合わせる」と書いてあります。理由は、たいてい「熱いと麹菌が死ぬから」と説明されます。前半は本当で、麹菌は44℃を超えると生育できません。よく言われる説明ですが、理由としては実はちょっと違います。麹菌はどのみち、塩のなかで生きられないからです。
守りたいのは、酵素のほうです。酵素はタンパク質で、決まった形に折りたたまれています。その形があるから、相手の分子がぴたりとはまる。温めると分子はよく動くので、切る速さは上がります。けれど温めすぎると折り目がほどけて、二度と戻りません。これを失活といいます。
大事なのは「何℃で壊れるか」ではなく「何℃に何分置いたか」です。麹菌のα-アミラーゼの活性が10分の1になるまでの時間は、緩衝液中の実測で55℃なら約25分、60℃で約9分、65℃で約4分、70℃では約2分でした。15℃上がるだけで、もつ時間はおよそ10分の1になります。味噌や大豆のなかでは、これよりも長くもつと考えられますが、それでも60℃に1分触れることと1時間置くことは、まったく違います。食塩13%の塩麹を96時間分解させた試験でも、45℃ではα-アミラーゼ活性がよく残り、55℃ではほとんど残りませんでした。
つまり危険域は、おおむね55℃からです。「人肌まで冷ます」という手順は、そこに十分な余裕を取った運用として読めます。冷ますのは待てば済みますが、熱しすぎだけは取り返せません。仕込みの全工程のなかで、失敗がもとに戻せないのはここだけです。裏を返せば、ここさえ気をつけておけば、あとは落ち着いて構えていられます。
半年のあいだ、あなたにできることが少ないのは、仕事の大半が蓋を閉じる前に終わっているからです。人がやっているのは、半年ぶん働く道具を壊さずに容器へ収めること。ではその道具は何を切って、何が味になるのでしょう。旨味も甘味も、実は外から加わってはいません。
