発酵の広がり — 03
味噌の歴史は、思っているより新しくて、思っているより曖昧です
年代の証拠を、種類ごとに見分けてみる
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味噌の袋や蔵の紹介文には、よく年数が書いてあります。「1300年の歴史」「中国四千年」。目にすると、なんとなく重みを感じます。
ところが出どころを辿っていくと、足元はけっこう柔らかいのです。本文が失われてしまった法令、成立年が数百年ずれる古典、明治になってから書かれた由緒。嘘というわけではありませんが、確からしさは同じではありません。
この章は年表ではなく、年代の見分け方の話です。「その年代は、何を根拠にした数字なのか」を先に見る癖をつけておくと、味噌の来歴はぐっと早く見えてきます。
年代には、証拠の種類があります
発酵の年代を支える根拠は、大きく三種類あります。出土した容器に残った成分の化学分析、道具の使用痕と残渣(残りかす)、そして文字で書かれた記録です。同じ「最古」でも、この三つは意味も精度も違います。
化学分析は、容器に何が入っていたかを分子の形で示してくれます。強い証拠ですが、残りやすい成分のほうに話が偏ります。使用痕と残渣が示すのは道具の使われ方で、工程は見えても、できあがったものが何かは間接的にしか分かりません。文字記録はいちばん具体的ですが、書かれた年は、その行為が始まった年ではありません。
ここがいちばんの落とし穴です。行為の年代と、記録の年代は別物です。シュメールのビール醸造を歌った「ニンカシ讃歌」は紀元前1800年頃の粘土板に残っていますが、ビールがその年に始まったわけではありません。記録に残るのは、たいてい社会にすっかり定着したあとです。「遺跡の年代」と「モノの年代」も別物で、地層の年代が測れていても、残渣そのものを測ったとは限りません。

世界最古の発酵は、どこまで確かめられているのでしょう
いま報告されているなかで最も古い発酵の痕跡は、イスラエル・カルメル山のラケフェト洞窟から出た石臼です。Liuらの2018年の報告では、三点の石臼から発芽させたコムギやオオムギのデンプン粒が見つかり、加熱と酵素分解に特有の壊れ方が残っていました。
ただし見つかったのはデンプン粒の壊れ方であって、アルコールそのものではありません。エタノールも、その分解産物も検出されていないのです。研究チーム自身が、この飲みものを「アルコール度の低い、薄い粥に近いもの」と表現しています。意図的な醸造だったかどうかも、まだ決着していません。
| 遺跡(現在の国) | 年代 | 何を根拠にした年代か |
|---|---|---|
| ラケフェト洞窟(イスラエル) | 約13,000年前 | 石臼の使用痕と、麦芽化したデンプン粒の損傷。アルコールは未検出 |
| 賈湖(中国) | 紀元前7000〜6600年 | 土器に吸着した酒石酸と蜜蝋成分。米・蜂蜜・果実の混成飲料 |
| ガダチリリ・ゴラほか(ジョージア) | 紀元前6000〜5800年 | 土器の酒石酸。ワインの最古の生化学的証拠 |
| ゴディン・テペ(イラン) | 紀元前3500〜3100年 | 壺の内側のシュウ酸カルシウム。大麦ビールの化学的証拠 |
「約13,000年前」は遺跡の層の年代幅(13,700〜11,700 cal BP)を丸めた数字で、残渣そのものを測った値ではありません。地名も分けて扱いたいところです。ゴディン・テペはイラン、ラケフェトはイスラエルで、どちらもメソポタミア平原ではありません。
「八千年前」という数字がぴたりと当てはまるのは、メソポタミアのビールではなくジョージアのワインのほうです。よく聞く「メソポタミアで八千年前にビール」は、この年代と中国・賈湖の年代が混ざってしまったものでしょう。近東でビールが化学的に確かめられている最古の例は、イラン・ザグロス山中のゴディン・テペ、紀元前3500〜3100年です。
文字の上では、メソポタミアのビールははるかに古くから書かれています。それでも、イラク側で残渣分析からビールが直接同定された最古の例は紀元前1415〜1290年のハニ・マシです。「書かれている」と「出ている」が別の証拠だということが、ここにいちばんはっきり出ています。
醤(ひしお)は、はじめ肉と魚でした
味噌の祖先をたどっていくと、中国の「醤(ひしお)」に行き着きます。ただし最初の醤は、大豆ではありませんでした。後漢の『説文解字』は「醬、醢也」——醤とは醢、つまり肉の塩辛のことです、と説明しています。『周礼』が扱っているのも動物質の漬けもので、肉を干して麹と塩を混ぜ、酒に漬けたと注にあります。
大豆と麹による「豆醤」が主役になるのは、もっとあとのことです。後漢の『四民月令』を見ると、正月に砕いた豆で「末都」という醤を仕込み、六月から七月には魚醤・肉醤・清醤が造られる、とあります。豆の醤は、まだ数あるうちの一つでした。北魏の『斉民要術』(6世紀前半)になると、醤といえば豆醤を指すようになります。その豆醤法は、原料処理・製麹・仕込み・熟成という、いまと同じ枠組みで書かれています。
ここでよく見かける取り違えが二つあります。ひとつは『斉民要術』を「約四千年前の農書」と書くもので、実際には約千五百年前です。もうひとつは『周礼』を根拠に「醤は三千年前から」と書くもの。『周礼』は西周の官制を記す体裁ですが、テキストそのものの成立は戦国期とするのが学界の通説で、五百年から七百年の差が飛ばされてしまっています。
日本の「未醤」は、8世紀の木簡と帳簿に残っています
日本の味噌の歴史でいちばんよく引かれるのは「大宝律令(701年)に未醤とある」という一文です。ただ、大宝律令の条文そのものは現存していません。いま読めるのは718年撰・757年施行の養老令で、その職員令大膳職条に「主醤二人」——雑醤・豉・未醤をつくる役人——が置かれています。大宝令にも同じ趣旨の規定があった可能性は高いのですが、確かめる手段がないのです。
年代が特定できる実物なら、いくつも残っています。平城京跡から出た木簡には「天平三年四月六日造醤大豆六石四斗 塩六石四斗 可无多知六斗四升 酒一斗二升」。731年に、大豆と塩と可无多知(カムタチ、麹にあたるとされます)と酒で醤を仕込んだ記録です。733年の隠岐国正税帳、739年の伊豆国正税帳にも「末醤」が甕ごと書かれています。八世紀の日本に醤と末醤があったことは、推定ではなく出土品と帳簿で言えます。
漢字の「味噌」が現れるのは、もう少しあとです。『日本三代実録』仁和二年(886年)、僧への支給品の一覧に、白米・塩と並んで「味噌二合」「醤一合」とあります。同じリストのなかで、味噌と醤が別の品目として並んでいるのが、ここではおもしろいところです。「噌」の字そのものは中国にもあって、『広韻』には鐘の音を表す「噌吰(そうこう)」の字として立てられています。日本でつくられたのは字のほうではなく、和語の「みそ」に「味噌」と当てる書き方のほうでした。
では「みそ」という語は、どこから来たのでしょう。「未だ醤にならざるもの=未醤(みしょう)」が転じた、という説がよく知られていますが、高麗醤(こまびしお)由来説や、「末醤」の「末」を粉末と取る説も並び立っていて、まだ決着していません。
醤油は、味噌の後輩です
順番を取り違えやすいのが、味噌と醤油の関係です。醤油が先にあって、その原型が味噌になった——ではありません。実は、逆なんです。固形から半固形の醤が先にあって、液のほうが後から独立していきました。
十五世紀の料理書『四条流庖丁書』(1489年奥書)に「垂れ味噌」が出てきます。味噌に水を加えて煮詰め、袋に入れて吊るし、垂れてくる液を集める。味噌が先で、液が後です。はじめから液を取るために仕込む方向へ移っていくのは、十六世紀にあたります。
語のほうも、段階を分けて見たほうが正確です。「しょうゆ」という音は、十六世紀前半の日記類に「漿油」などの表記で現れます。漢字二字の「醤油」に「シヤウユ」という読みが揃う確かな例は、慶長二年(1597年)奥書の『易林本節用集』。「醤油の初出は1597年」と書かれるのは、この最後の段階のことです。
そして「1254年に禅僧・覚心が中国の径山寺から製法を持ち帰った」という有名な伝来説。覚心の入宋と帰国は史実ですが、彼が発酵食品を伝えたという同時代の記録は、日中どちらにも見つかっていません。李美子の検証によれば、この説の文献上の起点は明治41年(1908年)の紀州湯浅醤油同業組合定款の沿革記事です。そこでは覚心の帰朝が安貞二年(1228年)とされていて、史実の帰国(建長六年・1254年)とは二十六年ずれています。
由緒が後から整えられること自体は、そう珍しいことではありません。気をつけたいのは、それが史料と同じ重さで引用されてしまうことです。1254年と十六世紀のあいだには、三百年の空白があります。

味噌が日常の食べものになるまで
味噌が最初から味噌汁だったわけでもありません。平安期の味噌は調味料ではなく、そのまま舐めたり食べものに付けたりする贅沢品でした。位の高い人への贈りものや、写経生への支給品にもなっています。
変えたのは道具です。鎌倉期にすり鉢が広まり、粒の残る味噌をすりつぶした「すりみそ」が水に溶けるようになって、はじめて味噌汁が成立しました。一汁一菜という食事の形も、このころに定まったとされます。新しい食べものが生まれたのではなく、新しい道具が食べ方を変えた例です。
室町期には大豆の生産が増え、農民が自分の家で味噌を仕込むようになります。戦国期には陣中食になり、江戸では地元の生産が需要に追いつかず、三河や仙台から運ばれてきました。
自慢することを「手前味噌」と言うのは、めいめいが自分の家の味噌を仕込んでいた時代の名残です。ただ、この言葉そのものがいつ生まれたのかまでは、はっきりしていません。
そして、仕組みが分かったのは、ごく最近のこと
ここまでの話には、微生物が一度も出てきていません。当然といえば当然で、誰も見ていなかったからです。
微生物を最初に観察したのはアントニ・ファン・レーウェンフックで、1676年の書簡でロイヤル・ソサエティに「小さな動物(アニマルクル)」を報告しました。ただし彼は、それが発酵の正体だとまでは言っていません。見ただけです。
発酵が微生物の生命活動であることを示したのはルイ・パスツールで、乳酸発酵の論文が1857年、アルコール発酵の論文が1858年です。よく一緒にされる自然発生説の否定は別の仕事で、白鳥の首フラスコの実験は1861〜62年。「パスツールが微生物を発見した」という言い方は、二人分の仕事を一人に合成してしまったものになります。
つまりわたしたちは、仕組みを知らないまま数千年これを使ってきたことになります。ただ「昔の人の知恵はすごい」で片づけてしまうと、何が起きていたのかが見えなくなります。働いていたのは知恵というより、うまくいったものを残し、そうでないものを捨てるという選抜でした。
麹づくりでいえば、前回うまくいった麹の一部を残して次に使う「友麹」がまずあり、やがて胞子を売る種麹屋が現れます。室町期には麹が独立した商売として成立し、1444年には製造権をめぐって京都で武力衝突(文安の麹騒動)まで起きています。
選び続ければ、選ばれる側も変わっていきます。いま味噌に使われている麹菌は、自然界からそのまま採ってきたものではありません。人が選び、育て、配り続けた結果としての菌です。それがどれくらい人の手の産物なのかは、それだけで一章分の話になります。
