発酵の沼 — 05
「味噌の香り」という分子は、実は存在しません
香気成分と褐変——感じたものを、物質の名前に置きかえてみる
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蓋を開けたときの、あの匂い。甘いような、香ばしいような、少しお酒に似た匂いです。あれは何という物質なのでしょう。正直にお答えするなら、「一つではないんです」になります。
きほん第3章では、香りは酵母がつくる、色はメイラード反応で濃くなる、と二行で片づけていました。ここではその二行を、分子の名前と、人が感じ取れる濃度のところまで開いていきます。そして最後に、「長く置くほど美味しくなる」という言い方がどこまで正しいのかを確かめます。
単独で嗅いで「味噌の匂い」がする分子は、ありません
米味噌から報告されている香気化合物は208種、そのうち標品などで確かめられたものが193種あります。醤油では300種を超えます。ただ、数の多さよりおもしろいのは内訳のほうです。この一覧をまとめた本間伸夫は、味噌に見出された香気化合物はほとんどすべてが他の食品にも見出されていて、味噌独特のものは認められていない、と結論しています。
つまり「味噌の匂いの分子」を一つだけ取り出す、ということはできないんです。あの匂いは、数百種の揮発性成分がいっぺんに鼻へ届いた、その合計として立ち上がっています。
とはいえ、味噌らしさを強く左右する成分はあります。代表格が HEMF(4-ヒドロキシ-2(または5)-エチル-5(または2)-メチル-3(2H)-フラノン)です。甘く焦げた、カラメルのような香りを持っています。もとは醤油の特徴香として知られていて、1991年に菅原悦子が赤系の辛口米味噌から初めて単離しました。量でいうとむしろ醤油のほうが約10倍多く、味噌だけの成分というわけでもありません。
ここがおもしろいところで、この分子は作られ方がちょっと変わっています。耐塩性酵母 Zygosaccharomyces rouxii を加えずに仕込んだ試験区では、熟成の全期間を通じて HEMF が検出されませんでした。では酵母がつくっているのかというと、それも違うんです。安定同位体で炭素をたどってみると、五員環の側は糖とアミノ酸のメイラード反応でできた炭素5個の前駆体に、枝のエチル基は酵母が糖から出したアセトアルデヒドに由来していました。二つの部品をつなぐところに、酵母の酵素が要るのです。
麹の酵素が糖とアミノ酸を用意して、時間がそれを反応させ、酵母が最後の一手を打つ。どれが欠けても、この香りは出てきません。だから酵母がほとんど働かない米甘味噌や豆味噌からは、HEMF は検出されません。香りがいつ生まれるかは、深掘り第4章で見た住人の交代が決めているわけです。
量が多い成分が、主役とは限りません
香りを語るには、量とは別の物差しが要ります。人がその匂いを感じ取れる、いちばん薄い濃度(=閾値)です。この値は、成分ごとに桁で違ってきます。
ある味噌懸濁液の実測では、イソアミルアルコールが14.6 ppm、HEMF が24.1 ppm と、含まれる量はほぼ同じ桁でした。ところが HEMF の水溶液中の閾値は20 μg/L(20 ppb)以下と報告されています。もっと極端なのが、コーヒーのような香りの2-フランメタンチオールです(閾値0.4 ng/L という報告があります)。硫黄を含む成分は、量では見えないのに香りには深く関わっています。
ですから調べ方も二段構えになります。まず GC-MS で分離して、何がどれだけあるかを決めます。そのうえで、分離した成分を一つずつ人が嗅いでいきます。香気の濃縮物を少しずつ薄めていって、最後まで嗅ぎ取れたものほどよく効いている(=寄与が大きい)と数える方法です。このやり方で未加熱の味噌懸濁液の最高値を示したのは、HEMF と、HDMF に γ-ノナラクトンが重なったピークの、二つだけでした。
長いあいだ味噌の特徴香とされてきたメチオノールが、この試料系では最低の値にとどまった、という例もあります。機器が拾える成分と、人が感じる成分は、きれいには一致しないんです。最後の判定を下すのは、いまも人間の鼻のほうです。
色と香りは、同じ反応の別の出口です
ここから色の話に移りますが、じつのところ話題は変わっていません。メイラード反応は、一つの反応の名前ではないんです。糖のカルボニル基とアミノ酸のアミノ基が結びつくところから始まって、アマドリ転位という組み換えを経て、そこから先で枝分かれしていきます。ストレッカー分解という道に入ったものは、香りのするアルデヒドになります。加熱した味噌汁で目立つメチオナール(茹でじゃがいものような匂い)は、硫黄を含むアミノ酸がこの道をたどった産物と考えられています。くっつき合いを続けたもの(=重合したもの)のほうは、メラノイジンという褐色の色素になります。
つまり、色が濃くなること(=褐変)と香りができることは、別々に起きている二つの現象ではありません。同じ幹から出た、二本の枝なんです。きほん第3章で「味は味、香りは香り、色は色」と分けて説明したものが、ここで一本につながります。

この反応は酵素を使わないので、止まりません
メイラード反応は、酵素を使わない褐変(=非酵素的褐変)とも呼ばれます。名前のとおり、酵素の手を借りません。ですから麹菌がいなくなっても、酵素が働きを失っても、この反応だけは進み続けます。冷蔵が効くのは、止めるからではなくて、遅くするからです。
| 保存温度 | 3か月後の着色度 |
|---|---|
| 4℃ | 0.035 |
| 20℃ | 0.055 |
| 37℃ | 0.430 |
市販の米味噌(食塩11.6%)を実際に測った値です。着色度は415 nm の吸光度で、初期値は0.025。山辺(1991)。
同じ3か月でも、4℃なら1.4倍、20℃で2.2倍、37℃では約17倍になります。しかも増えた分で比べると、20℃から37℃のあいだの効き方は、4℃から20℃のあいだよりずっと大きいのが分かります。温度が上がるほど、加速のしかたが増していきます。
ですから同じ「半年」でも、冬に仕込んで涼しい場所に置いたものと、夏を暖かい部屋で越したものは、違うところに着きます。きほん第5章で「置き場所が色と速さを決める」と書きましたが、その主な原因がこの反応です。半年というのは日数ではなく、温度の積み重ねなんですね。
褐変はアミノ酸を使うので、進みすぎると旨味は痩せます
ここからが、この章のひっくり返るところです。メイラード反応の材料は、麹の酵素が切り出した遊離アミノ酸そのものなんです。色が濃くなるということは、旨味の材料が減っているということでもあります。
市販の味噌の遊離グルタミン酸を測った報告では、淡色辛口の信州味噌が746.1 mg/100 g だったのに対して、赤味噌は213.6、仙台味噌は182.1 mg/100 g でした。3〜4分の1です。赤味噌でとくに少ないのはリジン・アルギニン・グルタミン酸だと、1968年には報告されています。リジンの側鎖のアミノ基はこの反応でいちばん反応しやすい部分ですから、この順番は化学的にも筋が通っています。

減っていくのは旨味だけではありません。実は HEMF 自体も、あまり丈夫ではないんです。試醸では熟成45〜60日で最大になり、そのあとは分解して減っていきました。酵母の関与を止めた保存試験では、5℃なら180日後も当初の約8割が残ったのに対して、30℃では60日で約3割まで落ち、180日後には検出されませんでした。
旨味のピーク、香りのピーク、そして色の好み。この三つは、同じ日には来てくれません。ですから「正解の日」というものはなくて、何を大事にするかで食べごろの窓のほうが動きます。
とはいえ、長い熟成は失うばかりではありません。メラノイジンは、色といっしょにコクと香ばしさを持ち込んでくれます。
それに、味噌のタンパク質は、全部がアミノ酸まで切れるわけではありません。山辺が測った米味噌では、全窒素のうち遊離アミノ基として数えられる分(ホルモール窒素)が24.5%、水に溶けている分(水溶性窒素)が62.5%でした。その差にあたる全窒素の4割弱が、アミノ酸の手前で止まったペプチドです。残りは水にも溶けない、切れきらなかったタンパク質になります。赤味噌の味の厚みは、このペプチドの側が受け持っています。
ただ、高温で長く置きすぎたものは、さすがに話が別になります。米味噌を37℃で3か月保存した試験では、着色が17倍になると同時に酸度が約2倍に増え、pH は5.4付近から4.5付近まで下がって、油の劣化に近い異臭が出ました。「進みすぎ」を実際に測るとどう見えるか、という一例です。
そして香りは、鍋の中で失われていきます
最後に、台所へ戻ってきます。ここまで見てきた成分の多くは飛びやすく(=揮発性で)、しかも熱に弱いものです。
赤系の辛口米味噌の懸濁液を98℃で30分加熱した実験では、嗅ぎ分けられた香りが57種から45種に減りました。ただ、大事なのはその内訳です。24種が消えて、12種が新しく生まれています。消えたほうには「甘い」「さわやか」「発酵臭」が多く、生まれたほうには「むかっとくる」「こげ臭」「すっぱい」が多いのです。
つまり煮すぎた味噌汁は、香りが飛んだだけではないんです。飛んだぶんと、新しく出たぶんの差し引きで決まっています。「まずくなる」の主な犯人は、むしろ足し算のほうです。実際に測ると、イソアミルアルコールが14.6 ppm から0.1 ppm へ、HEMF が24.1 から9.2 へ減り、その一方でメチオナールは増えていました。第3節のストレッカー分解が、鍋の中でも走っているからです。
ちなみにこの匂いを「メチオノールが加熱で酸化してメチオナールになるため」と説明する書き方が長く出回ってきましたが、実験では確かめられませんでした。メチオノールを加えて加熱しても、メチオナールはほとんど生まれなかったのです。推測として書かれた一文が、決まった事実のように孫引きされ続けた、という例だと思います。
温度で見てみると、15分の加熱なら70℃までは未加熱に近い香りが保たれ、甘い香りはむしろ増えました。80℃を超えると急に失われて、98℃ではほとんど感じられなくなります。「味噌は火を止める直前に溶く」という台所の作法には、成分のレベルでちゃんと裏づけがあるわけです。
香りが弱まっても、旨味のほうは残ります。そしてここに、だしという心強い味方がいます。味噌はグルタミン酸を持っていますが、核酸系の旨味成分はほとんど持っていません。この二つが一緒になると、感じる強さは足し算を超えて跳ね上がります。
醤油で測った例があります。味の成分を足した醤油を豆腐にかけて、元の醤油と区別できるかを試した実験です。グルタミン酸ナトリウムは、醤油に対して3.9%足さないと違いが分かりませんでした。核酸系なら、その130分の1の0.03%で足ります。もともと核酸系を含まない醤油だからこそ相乗効果が大きく出たのだろう、と論文は読んでいます。
味噌も、核酸系をほとんど含まないという点では同じ側にいます。旨味を強くしたいときは、味噌を足すよりだしを合わせるほうが、桁違いに効いてくれます。
開けたあとの味噌も、静かに進み続けています。HEMF は空気にさらされると酸化されて分解します。冷蔵は反応を止めるのではなく、遅くするだけです。小分けにして空気に触れる面を減らしておくのは、香りを守るための手当てなんです。
ここまでは、味噌の中で何が起きているかの話でした。残っているのは、それがどこで起きているのか——置かれた場所の話です。
